人を恋うる歌 2009年3月6日

人を恋うる歌    与謝野鉄幹
妻をめとらば才たけてみめ美わしく情ある
友をえらばば書を読みて六分の侠気 四分の熱
恋の命をたずぬれば名を惜しむかな男ゆえ
友のなさけをたずぬれば義のあるところ火をも踏む

(略)
この詩を知ったのは中学の便覧か何かに載っていたからだと思う。
授業中はヒマだったから、よく読んでた。
有名な詩なので今更だけど、少なくともこういう風に生きたい、
と僕に影響を与えたのは確か。
書を読んで思索する人間であること、義を重んじる人間であること、
理想のために情熱を燃やす人間であること。
恋よりも名誉を選ぶかは分からないけれど、
正しいと信ずることのために危地へ飛び込む勇気を持つ人間でありたい。

今日のつぶやき 2008年8月13日

世の中にはいろいろ複雑なものがたくさんあるけれど、
分からないものといえば、税金だ。
これほど広く行われているシステムで、これほどわかりにくいのは問題だと思う。

よくいろんな人が税金の使途を追求することがあるけれど、
僕にとってはどうでもいいことだ。
税金とは国民としてのサービスを提供するのに必要な対価であって、
種々の公的サービス(ライフライン、警察、病院)などの、
秩序や安全が維持されていれば十分なように思う。
問題は、その金額がサービスの対価として適当か、であって、
その徴収したお金をどのように使おうが、政府の勝手だ。

これは、各種の個人や法人が得た収入をどのように使っても、
非難される謂われがないのと同じことだ。 下書きの保存
例外があるとすれば、用途を限定して徴収したお金を、
別の目的に使用することだろう。

そうそう、小さい頃に国家予算で疑問に思った最大の点は、
その年の歳入は、(原則として)必ずその年に使い切らなければ行けない点だ。
現在は国家予算は赤字だが、昔は黒字だった時代があった。
貯金できないから、概算要求と言って、その年に必要な運営資金を(少し多めに)要求する。
これも、税金を必要最低限のお金しか集めちゃだめ、という誤った考え方があるからだろう。

同じサービスをより少ないお金でできれば、
もしくはより多くのサービスを同じ金額でできれば、
余剰分をどうしようと勝手だと思うんだけどなぁ…。それが優秀さの証。
まぁそんなサービスができるところは、一刻も早く民営化してしまうべきだが。

非常に単純な話として、税金は一律に所得の何%と決めてしまえばいい。
そして消費税も、もっと多くしたらいいんじゃないだろうか。
生活必需品等にはかけないなどの措置が必要かもしれないけれど、
多く持ち、使った分だけ上乗せされるというのには公平性がある。

たくさんの例外は、一見その場に合わせた最適化のように思えるけれど、
誰が最終的に得をしているかといえば、それを専門に扱う人たちだ。
これらの複雑さを廃して、その専門家たちがいなくなった方が、
どれほど長期的に見て有益か分からない。

たくさんの人が指摘して、今さら僕がここで言うことでもないが、
世の中の仕組みは持てる人がもっと持てるようにできている。
それは嫌だと思うならば、それに対する知識を以て抗うしかない。
逆に利益を守るには、分かりにくく、複雑にすればいいだけだ。

地球の広さとすむところ 2008年3月29日

人口は緩やかに減少すればいい。
今巨大な人口を抱えた国家はますます人口を増やし、
資源を食い付くすだろうが、いずれ発展が進んだ段階で同じ道を辿るだろう。
世界の人口は多すぎる。

だが、100年のスパンで減って行き、最適値に行き着くだろう。

その値はいかほどか…30億よりは下だろう。10億よりは上かもしれない。
日本の人口も、今の半分もあれば国土に対していっぱいだろう。
現状は過密に過ぎる。2千万もいれば十分かもしれない。
人口の最適値はその時代までに残されている資源の量と、
使用可能なエネルギー量によって決まる。

様々な 2008年3月27日

虫の電気制御かわいそう
人間への適用とかは無理だけど、気持ち悪く思った。

この環境は・・・・なぜあの感じと違うんだろう。
むしろこれがスタンダードだと思ってたくらい。

ウィルス感染PCを扱う上においては、対策をしない方が愚か。
もともと、決まりも何もない世界から生まれた無法地帯だから。
現代世界だってそうだ。
女子供が夜中に歩いて無事でいられるのが当然だと思ったら大間違いだ。

技術と体験
素敵だ!と思うことと、感動を覚えること。
それらは決して高度な技術の上になりたっているものではないということだ。
これまでは、技術があまりにもプリミティブ?だったために
技術の発展こそが素晴らしい体験を得られることだった。
曰く、車は速く、振動が少なく、安全に。コンピュータは高速で、軽快に。
電子機器は、高機能に。
今では、技術の進歩は豊かな体験を意味しない。
既存の技術の組み合わせで、十分に実現できる。
必要なのは何を重視し、何を与えたいのかというビジョンとメッセージ。

あいまいさ
非常にファジィなのであまり使いたくはないが、
概念として便利なので使ってしまう言葉に理系と文系がある
。僕が理系とは文系と理系の違いとして思うことは、
ものごとに対する定義ということになる。
文系は、一般常識、もしくは雰囲気で言葉を話し、
理系は具体的な値、範囲、現象を定めて説明する、とでも言うといえばよいのか。
たとえば、占いや心霊現象と呼ばれるものが良い例かも。

学力
さすがに失礼なので、「『学力』とは?」とは聞けなかったが、
お父さん、お母さんには一定のイメージがあるようだ。
「全国的な『学力テスト』で、せめて平均くらい(小学生子どもを持つお母さん)」や
「公立高校に合格くらいの成績(中学生子どもを持つお母さん)」という答にあるように、
「学力」を「問題を解く能力」あるいは「その結果の成績」に二重写しする傾向は
否定できない。
しかし、社会のなかでオトナがいう「学力」は、「問題を解く能力」ではなく、
思考や判断そして表現(伝達)する前提となる知識や姿勢だろう。
スタッフの大学院生が低下していると指摘するのは、
「問題を解く能力」が低いのではなく、
「問題を解決していくための思考の基礎が身についてない」との意味である。
また、高校生に感じるのは「判断や表現の前提となる知識の偏り」に近い。
それは「問題を解く能力」あるいは「その結果の成績」とは大きく違う。
さらに「基礎的・基本的な知識・技能」とも「思考力・判断力・表現力」でもない。
極端にいえば、将来に向けて目的を決め課題を克服していく「進む力」??
それが「学力」なのだ。
もちろん、「基礎的・基本的な知識・技能」も必要だろう。
加えて「思考力・判断力・表現力」も欠かせない。
しかし、そのような言葉の断片で表現できる程「学力」は単純ではない。

ジェンダーと女性蔑視の問題

遥洋子(?)


医療の世界では、女性医師の比率が近年増加している。
女性進出けっこうなことじゃないかと思われる諸氏は早計だ。
 女医の増加は決してバリバリ働く女性の増加を意味しない。
いつ戦線離脱するか戦々恐々とする現場と、
仕事と家庭の両立にあえぐ女医の現実と、家庭を持つ女医への優遇措置に対し、
他の医師からの反発も予測されよう。
 性別を問わない純然たる競争下での女性の台頭とその後の現実は、
今の社会の目指す男女共同参画の未来を占う意味で興味深い。
 女性医師の労働環境を改善するための、あるシンポジウムに参加した。
客席は圧倒的に女性の医療関係者。
そして、舞台には医学会や病院の上層部の男性たちが居並ぶ。
女医代表の発言者の要求項目に私は耳を澄ました。 
「深夜、患者の急変で、寝ている子供を連れて病院に駆けつける女医がいる現実がある。
主治医を複数にする制度を作ってほしい。
あくまで正規雇用で労働時間を短縮してほしい。
カンファレンス(会議)を夕方ではなく早い時間にしてほしい」というものだった。 
上層部の男性医師が「カンファレンスを早くするのは無理」とこともなげに答えた。 
女性側の要求と、病院側の姿勢に、私は固い壁を感じた。
もちろん、それまで病院側も女性医師たちに対して
まったく手を差し伸べていないわけではない。
保育所を増やしたり、育児期間は比較的緊急度が少ない部署へ配置したりの配慮はある。
だが女医の実感ではそれだけではまだまだ不完全なのだということがその要求から伺えた。
 私は当然、女性の労働者を応援する側の立場だ。だがその私が女医の要求を聞いて、
「はて?」と思った。 
まず、子供を連れて病院に行かねばならない、ということが私には腑に落ちない。
夫はどうしているのか。寝てるのか。育児は妻だけがしているのか。 
複数主治医制は患者側にとってはいかがなものか。
仮に主治医が3人いたとして、それはもはや“主治医”とはいわないのではないか。
最も優先すべき患者が、働く女性の都合優先で後回しにされることにならないか。
 もし、短時間労働、深夜勤務なし、そして賃金は他の正規雇用と一緒、となると、
他の医師は黙っているだろうか。最も恐ろしいのは、
結婚した女性を優遇することにより、その埋め合わせで独身女性医師は
ますます過重労働になり、ますます結婚が遠のき、女々格差が固定されないかということだ。
つまり、女を踏み台にする女という構図だ。
 カンファレンスを夕方からではなく午後くらいに終えたいという要求は
どういった事情から来るのだろうか。
夕方には仕事から解放されたい背景に漠然と想像できるのは、
カルチャーセンターへ行きたいというようなものではないだろう。
“晩御飯の仕度”だろうか。“子供の迎え”だろうか。“家族との団欒”だろうか。
 仮に、結婚した女医への優遇措置を病院が拒絶した場合どうなるだろう。
おそらく女医たちは早々に仕事か家庭かの二者選択を迫られることになるだろう。
辞められて困るのは医療の現場だ。優遇すると対立を呼ぶ。優遇しないと辞めていく。
男性上層部の苦渋に満ちた表情が印象的だった。 
私はこれらの問題を解くには、“ジェンダー”という概念なしでは不可能のように思う。
 女医は、子供の手を引いて仕事場に駆けつけなければならない現実から
解放してほしいと病院に要求するが、
それらの背景には「育児は女の仕事」という思い込みがある。
夫婦そろってそう思い込んでいると、問題解決は労働環境の改善だと疑うことなく直結する。
だが、その思い込みがジェンダーなのだ。
改善要求は職場に対してではなく、目前の夫に対してであるかもしれないというのに。
 「夕方には家に帰らねばならない事情」だってそうだ。
もし病院のシステムを変えてまで晩御飯の仕度を優先してしまうなら、
その考えをジェンダーというのだ。改善すべきは病院側ではなく、
家事を女医に期待する家族側ではないのか。 
意見を求められた私は「妻が医師であることへの夫や家族の覚悟が足らない」と発言した。
女性たちから拍手がきた。 だが、私がそこで言わなかったことがある。
「自分が選んだ職業への覚悟が足らない」ということだ。
警察・消防と並んで24時間勤務である職業を選んだのだ。
晩御飯を作らねば崩壊してしまうような結婚相手を選んでどうするのだ。
夫や家族の意識を変えていくことも重要だがそれは容易ではない。
それくらいジェンダーは人の心の奥深くに刷り込まれ自覚しにくい。 
まず自分のジェンダーに気づき、自分がやりたい仕事があるのなら、
俺について来いという頼りがいのある男性を選ぶのではなく、
君をサポートしますという謙虚な男性を夫に選ぶべきなのだ。
どの男に魅力を感じるかもジェンダーの作用が働く。
そもそもが、男選びのスタート地点から間違っている可能性がある。
 そうやって自ら呼び込んだ両立の困難を、
その責任を職場に訴えること自体が筋違いかもしれない。
つまりは、「結婚しなおせ」ということで、
だから、そんな非現実的なことを私は発言できなかったのだ。

 ただ、改めて、ジェンダーの恐ろしさと罪をヒシヒシと痛感するシンポジウムだった。
私がもう25年以上いる芸能界という職場もまた、ワークライフバランスとは程遠い。
医療と違い、人の命を扱う緊迫感はないが、ロケは深夜にも及ぶし数日にわたる。
深夜から早朝の生放送など普通で、労働時間は一定ではない。なんの保障も優遇もない。
 だがここは「どうしても芸能界に入りたい」人の結集する職場だから、
育児ごときで、家庭ごときで、遅れをとってなるものかと、
結婚した女性たちはその両立に知恵を絞る。ジェンダーなんか知らなくても、
“働きたさ”が募った結果、それに相応しい夫を選んでいる。 
24時間ベビーシッターを常駐させている主婦タレントもいる。
24時間勤務でも結婚生活が可能であることを芸能界は実証している。
ただ、やがて浮気しだす夫や、覚せい剤に手を出す息子など、一定数の崩壊はつきものだ。
重要なことは、それでも働きたければ働くということだ。
「自分が選んだ職業への覚悟」とはそういうことだと思う。 
シンポジウムの締めで、大学病院の男性教授が言った。
「女性医師たちのあらゆる要求を聞こうと思う。
だが、それでこの問題が解決するとは思えない。それは何かとは明確にはわからないが・・・」。
この教授の直感は正しい。その「・・・」の先にジェンダーがある。 
そのわかりにくさゆえに、“ジェンダー”は混乱や反発を呼びやすい。
私もできるだけこの言葉は使わないようにしてきた。
だが、これでなくては説明できないこともある。
ジェンダーという概念を封印しようとする社会で、医療の未来はない。 
どれほどキャリアを積もうが、ジェンダーの自覚なしに、女性の社会進出は成り立たない。
そこにあるのは、働く女性の悲鳴と、上司の困惑と、家でご飯を待つ夫、というところか。 
私だって職場に男性医師とヒモみたいな男がいたら迷わず男性医師を選びたい。
だがその瞬間、自らのキャリアと妻役割がぶつかる。
女性がキャリアアップしたければ必然的に後者の男のタイプしかないのだ。
だがヒモみたいな男は芸能界のほうにいて、医学界には将来有望な男しかいない。
その垂涎の事実が苦悩を招くのだ。 
ジェンダー、恐るべし。

内的自分と外的自分 2008年3月6日

起きているのか寝ているのか、
今が昼か夜なのかさえ分からない。
それくらい自分が分離している。
わかるのはかろうじて暑さや寒さ、快や不快のみだ。
これで生きているというのだろうか?

雑記 2008年3月6日  

山手通り、青梅街道、地下鉄&明治通り
工事がもうそろそろ終わりそう。
北新宿も再開発工事が着々と進んでいるし、
今のところに住み始めたころに始まった工事もようやく終わろうとしている。
もう5年だもんなぁ。早いものだ。

always 3丁目の夕日
お父さん役の堤真一がいい感じ。
最初、茶川演じる吉岡はなんだこりゃと思ったが、最後まで見てこの人うまいなぁと感じた。
ヒロミが指輪をつけてかざすシーンが一番感動した。
久々にあんな純粋に感動したかも。
あと、子供が遠出したときのやりとりと、帰れなくなったあとの前後の会話は
自分にも身に覚えがあって、感慨深かったです。
そしてお母さんの縫い込みにもジーンときちゃいました。

まぁ、思ったのはストーリー自体は別に昭和30年代でなくてもできそうな感じだった。
独特の郷愁感と、多少のストーリーに関わる部分があるくらい?
続・の方も見てみたい。
むしろ原作?

Prizon Break
なかなかおもしろいのだが、ややえぐいのが嫌だなぁ。
人、死にすぎ。そして殺しすぎ。
アメリカらしいといえばそうなのかもしれないが・・・。
一番面白かったのは最初のところかな。
入れ墨ってすごいね。
それにしてもHDDを投げ捨てたりしちゃだめたよ・・・あっさり利用されているし。
謎解き、頭脳対決に焦点をあてれば面白かったのになぁ。
あと、脱獄囚が多すぎて一人一人のストーリーを裁ききれなかったのが残念ね。Part2。
今、2の後半あたりだけど、ラストはどうなることやら。


プラダを着た悪魔
まぁまぁ面白かった。しかし彼女が仕事を放り出したときのやり方が気に入らん。
映画だけどさ、電話捨ててサヨナラって。
それで許す上司も上司だが。
しかし彼女の優秀さは真似たいものだ。

DeamGirls
良かったです。ラストのオチがついてないような気がしたけど、
ミュージカル調の映画はそんなものなんだろうなぁ。
別にストーリーは歌の味付けみたいなものだろうから。
社長が悪く描かれているが、一面彼はそんなに悪い人間ではないような気がする。
何が大事なのかにもよるが、彼らを売れる、そしてBIGなものにしたのは
彼の手腕だろう。
まわりの人間にそれほどの自由を許さなかったのかもしれないけど。


最近本読んでないなぁ。
下らない本ならたくさん読んでるけど。
もっと文学を読まないと・・・。