雑記 2008年2月28日

感情の欠落

昔からものごとを客観的に観察する傾向にある。
感情に関する授受が薄弱だ。

ニュースをつけると毎日殺人や事故などが起きている。
しかし、総人口から言って統計的に見ればそれはかなり確率の低い出来事だ。
もちろんそれらには個別的な要因があり、一概には言えないものの、
多くの人がそれらの出来事には無縁で生活していられるといった事実がある。

どこをどうすれば良いのか。
それが先に来る。




相談を受けたとき、感じることがある。
それは、多くの人が解決を求めているのではなく、
何らかの慰めや同情を欲していることがほとんどであることだ。

僕自身は、誰かに聞いて欲しいというような相談はめったにしない。
僕が相談をするときには、確実に何らかの具体的な解決策を求めているときだ。

だから、最初のうちは他人から相談されたとき、
その考え得る解決策を即座に複数提示し、それを行うための後押しをした。
それはまさに僕が求めるものだからだ。

学生から悩みの相談を受けたときなどに、まず対処のし方から話す、という傾向が僕にはある。それも、間髪入れず答えるらしい。ところが、悩み相談というのは、そもそも事情をゆっくり聞いてあげたり、「それは大変だね」と慰めてあげたりすることの方にウェイトがあるものだ、と最近気づいた。僕の場合、「人に相談するからには、どう対処をすべきか、というアドバイスを求めているだろう」と素直に考える。自分が人に相談するような場合は、例外なくそういうときだからだ。
 したがって、たとえば、体調も悪く、嫌なことも多く、いろいろ作業が上手く捗らなくて困っている、と相談を受ければ、「では、作業量を減らしなさい」と言い、その作業を誰に任せるか、どう周囲に割り振るか、などを瞬時に計画する。相談してきた人は、励ましてほしいのかもしれないし、僕がどう思っているかを聞きたかったのかもしれない。
 僕が相談者の状況をどう考えているのか、ということを僕は一切言わない。どういった事情なのか、も尋ねない。どうすれば良いかを真っ先に提案してしまうのだ。学生からは「冷たい先生」だと思われていることだろう。それは全然かまわない。ただ、おそらく過去にスバル氏と喧嘩になった理由の大部分がこれではなかったか、と今になって多少反省するところである。



技術とは何か。
正確にものを作ることではない。
僕はものを作ることが好きなことから、よく器用と言われたことがあるが、
それほど器用でないことをよく知っている。
僕より器用な人なら、これまでにも何人もいたものだ。

技術とは、考えた通りのものを実現できる力のことだ。
ある機能を実現できるものを考案する、
考案したものを設計する、
設計したものを実際に作ってみる、
改善点、失敗した点についてフィードバックをかける、
こうしたフローの中で、
技術とは4番目の作ることではなく、
5番目のフィードバックにある。
僕は、考えたものを考えた通りに作るために、数多くの試行を行う。
その中で、有効に働くプロセスを見つけることができることがある。
それを他人が見たときに、器用だね、と言うのだ。

はっきり言って、ものを作ったりすることは器具や機械があればできる。
というか、器具や機械がないと人間は何も作れないといった方が正確だ。
それらの運用に関しては慣れだし、
それらが使えることは技術を扱うものにとっての最低限のスキルだ。