Le reveries du promeneur solitaire  2008年07月13日

『わたしたちは生まれて競技場に入り、死んでそこを去る。
競技の終わりになってからもっとよく車を操る術を学んで何になる?
いまはただどういう風に退場すべきかを考えればいいのだ。
老人の勉強は、老人にもまだ勉強する事があるとすれば、
ただひとつ、死ぬことを学ぶにある。
しかも、わたしぐらいの年齢になると、それこそ何よりも怠けていることなのだ。
すべてのことを考慮に入れながら、それだけは考えようとしない。
老人というものはみんな、子供たちにくらべて生にいっそう強い執着を持ち、
青年よりもいっそうつらい面持ちで生を去っていく。
それはつまり、かれらのいっさいの苦労はこの世のためだったのだが、
人生の終わりになって全ては徒労だったことを知るからである。
いっさいの心づかい、財産、刻苦精励の結晶もすべて、死ぬときには見捨てていく。
かれらは生きているあいだ、死に際して持ち去ることのできるようなものは
なにひとつ獲得しようとは考えなかったのだ。』

                   ルソー 「孤独な散歩者の夢想」



死ぬことを学ぶとは、一体どういう事なんだろうね。
何を目指し、何を学べばよいのだろう。
死に際して持ち去ることのできるようなものって一体なんだろうね。
どうやらそれは、この世で生きるために培うものでは無いらしい。

死ぬとき人は孤独であって、その時支えとなるものは
はだかの自分自身しかないと言われている。
けれど、人間や、人間性や、哲学を学ぶ人はいても、
ほとんどの人にとってそれはただ物知りになりたいからであって、
自分の内部を見つめ、自分自身を鍛えるためではない。

多くの人たちは、自分自身についても、
自分で見定めなければならない人生や世界の不思議についても、
ほとんどを他人に丸投げをしている。
そのような問題について独断することのできる人間は、
まやかしを事とする人間だけだというのに。



『達者にしゃべる連中の詭弁にいつまでも翻弄されているのか?
かれらがお説教する思想、あれほど他人に押しつけようとしている思想は、
ほんとうにかれら自身の思想であるかどうか、それさえはっきりしないのだ。
その教説を支配する情念や、あれこれと信じ込ませようとする利害の念は、
彼ら自身がなにを信じているのかを見抜くことを不可能にしてしまう。
彼らの哲学は他人のための哲学だ。わたしは自分のための哲学を必要とするのだ。
自分の思想を、原則を、ここではっきり確立させよう。
そして、十分考えたすえに、
かくあるべしと納得したとおりに今後生きていこうではないか。』