共鳴  2008年05月18日

命題。
人は歌がうまくなるのだろうか。

歌い方そのもの自体は、練習によって変えることできる。
例えばそれは、楽器をどのように演奏するのかというのと同じ。

けれども、楽器としての人は体が完成した時点でほとんど決まってしまうように思う。
多くの楽器が作られた時点で音色が決まってしまうように。
唯一の例外は肉体を多少なりとも変化させられることだが、
こちらにしても骨格が決まった時点で大きく変えることはできない。

ところでスピーカーの音の良さと言うのは、
振動する振動板(丸いヤツ)もさることながら、筐体の影響がとても大きい。
振動板はある程度のものでも、筐体さえ良いものならいい音がし、
逆によい振動板を使っても、筐体を変えるとまったく違う音がする。
共鳴を起こすための内部構造、剛性を上げるための各種素材。
何十万、何百万といった価格を持つスピーカーもこの世にはあるが、
それらはそういった部分にも大きな努力が払われていたりするようだ。
同様に、あらゆる楽器が振動を発生する震動源と、
それを響かせる共鳴器の組み合わせで様々な音色を発生させる。

よく、声がいいことを喉がいいと言うけれど、
喉はただの振動板であって、肺、喉、鼻腔にいたる空気の通り道と、
肋骨や頭蓋といった骨格部分全体で声の質が決まる。

それらは生まれた時点で基本があり、成長期にかけて変化を受け、
大人になるまでには決定する。
その意味で、歌い方によって格段に歌がうまくなった、という事例を、
僕は見てみたいものだ。


N
体格などは成長期で最終的に決定するので、ある程度のその人の歌唱力は決まってしまうと自分も思います。
ただ、筋肉みたいに折角持っているのに普段使わないところっていうのがあると思うので、(トレーニングを受ける歌手とかは別として)みんな自分が知らない本来の歌唱力を備えているのではないかと考えます。
声を出すための器官を100%の力で使えるようになれば、プロとは言えなくともカラオケで堂々と披露できるくらいに上達することは可能なんじゃないかと。

と、思いたいですね


Y
あー、もうこれって、私にとっては超・問題ですねえ。笑

「歌がうまい」とは、どういうことなのか。
これが人によって異なってくるので、より難しい問題ですね。

基本的に初心者の歌のレッスンって、
息の使い方、身体への響かせ方、
耳やリズム感のトレーニングを学ぶものだと想うんだけど、
(そしてこの段階で最も重要なのは、
 耳のトレーニングであると私は考えます。)
ここを或る程度マスターすると更なる難題が現れます。

「内面」の問題です。

「内面」の無い歌は、
声が良く響いてようが、ロングトーンが長かろうが、
音程が正しかろうが、リズムがきっちりしていようが、
歌詞がはっきり聞き取れようが、
聴くイミがありません。つまらないから。

そして「内面」は自分で育てるしか在りません。

だから、
「歌が巧くなるには、歌うことは勿論必要である。
 しかし歌ってばかりでは巧くなどならない」
って感じ。何かよく解らないけどねー。笑

ただ、上記でkの云う「歌のうまさ」は、
私みたいな立場からすると「声の良さ」だから……

んー、ぶっちゃけた話、声を良くするには限りが在りますね。
「頭蓋骨の奥行が無い」、
「額が狭い」、
「頬骨が低い」、
「胴が薄い」、
「口が小さい」、
等々、身体的要因が絶対的障害にはなります。

それでも、歌には色んな分野が在るし、響かせる方法も様々です。
三者からのアドヴァイスを貰って、
自分のカラーに適した分野を選んで、
自分に合った響かせ方を習得すれば、
誰でもある程度巧くはなると想います。

頬骨なんかは長く歌を続けていれば高くなるし!
首も太くなったり、胸部も厚くなったりするし!

あー、なんかもうよく解んなくなって来たし!!

あ、一番好いのはきっと、k自身が歌を習ってみることだよ!
あ、私、生徒募集中なんで宜しかったら……笑笑。

歌で生きたい人間の長ーい戯れ言でした☆

k
>>Nさん

歌に関しては楽器と違って、奏者と楽器が一体というところがありますよね。
だから、楽器なら外から眺めて客観的に評価できますが、
自分の肉体だと、さすがに主観を入れずに見ることが難しいです。
それは例えば、自分の手で自分の体を触ったときに、
触れた感触と触れられた感触がどっちがどっちか分からないみたいな
感じですかねぇ。
演奏しているのが外からは見えないので、体の使い方のような外面的な部分では
自分でどこを直したら良いか分かりづらいところがあるかもしれません。

声が筋肉みたいに普段使っていないところがある、
というのは言い得て妙ですね。
声優さんやものまね師の中にはいろんな種類の声を出せる人もいますし、
レーニングをしていない素人には、余計な部分に力が入って、
うまいこと声を出せていないんじゃないかとも思います。


k
>>Y
ははぁ、超・問題ですか。
Yにとってはすでに超越してしまった問題のようですね(笑)
・・・失礼しました。

Yが言ってくれているみたいに、
この話はどちらかというと声質の話だよなぁ、
と書いてる途中に思いました。
まぁでも、声が変えられるか、という命題だと、
「そんなの無理に決まってるじゃん」で終わってしまうので、
それも含めて歌がうまくなるという話にしてみた次第です。

これを書いたのは自分が歌がうまくなりたい、というよりも、
歌う技術とはどのようなものか、といったことに興が乗ったからなんだよねぇ。
やはり人というものを楽器として見ると、
行うトレーニングというのは楽器としての性能をどれだけ引き出すか、
ということにかかってきていて、楽器が持つもともとの
ポテンシャル以上のものはどれだけ練習しても引き出せないのかなぁと思います。

だから、そこからは表現力にかかってくるよね。
「内面」というのは、ある意味で様々な情報を自分というフィルタにかけて
変質を受けた情報だと言うことができると思います。
そのフィルタのオリジナリティが内面性ということができるけど、
歌に限らず、あらゆるものが表現されないと存在しない、ということが言えます。
内面を深めることはもちろんのこととして、それと同時に、
その内面をいかにすれば表現できるのか、も大事かもしれません。
仮に凡庸な(=人並みの)内面であっても、
その表現の仕方が巧みであれば、それだけで多くの人を引きつけることができると思います。
いうなれば内面とはフィルタの幅であり、そのフィルタのかけ方が
僕たちが目にする表現力というものになるのでしょう。
蛇足ながら、その表現を理想の形で示すために技術があるんだよね。

それと似た話で、確かロマン・ロランだったと思うけれど、彼は
「これまで人類が未知だった感情を表現するには、まったく新しい形式を必要とする」
と語っていました。
この世でマスターピースと呼ばれる物を作り出して来た人たちは、
これから来たる新しい時代をその鋭い感性で予感しながら、
その時代感情とでもいうべきものを表現するため、
新しい形式を形成しながら前人未踏の領域へ踏み込んで来ました。
分かりやすい例ではピカソムンクだったりベートーベンだったり。
彼ら、とまでは言わないまでも、
少なくとも目の前にいる人たちと共感し合えるだけの表現力を持ちたいものです。

歌に限らず音楽全般に言える特質として、
「人は音楽を聞いているとき、人が音楽を聞いているのではなく
 人が音楽そのものになっている」
という点があると思います。楽しい曲、悲しい曲、激しい曲、穏やかな曲…
まるで、その感情にひたされているかのように。
だから、歌ほどダイレクトに、人の感性に訴えかけるものはないと思います。
言葉は理性に働きかけるけど、歌は心に響きわたる。

いつかまた、Yの素敵な歌声を聞かせて下さい。