搾取 2007年05月

今をさかのぼる事130年程。
ロシアの文豪トルストイは自分の信念から、
貧民街の実態調査の委員にみずから志願した。

爵位を持つ名門貴族であったトルストイは、
生まれて初めて、悲惨の実体を目の当たりにした。

そこでは社会の仕組みから転落した者の精神的堕落を、
自分の眼で確かめることができた。
仰天しながらもトルストイはその印象を正確無比に分析した。

この悲惨のどん底ーーーその原因は何か。
この悪徳ーーーなにゆえに。
答えはその場で出た。





ちょっと考えてみて欲しい。


貧しい人びとがいるのは?
無知な人びとがいるのは?
労働の重い軛に屈従している人びとがいるのは?














貧しい人びとがいるのは、

一方で富のあり余る人がいるからである。


無知な人びとがいるのは、

一方で無駄な知識を持て余す人がいるからである。


労働の重い軛に屈従している人びとがいるのは、

一方で無為に暮らす人がいるからである。


そしてトルストイは「一方の人間とはだれか」自問してみる。
するとこういう答えが返ってくるのは必定だった。
「私だ、私と私の家族だ」


そしてこの逸話を読んだ時、僕にも戦慄が走った。
豊かな日本に暮らしていることは差し置くとして、
僕は贅沢はしていない、少なくとも無為もしていない。

しかし僕は学生として、無駄な知識を持て余していないだろうか。
自分の満足だけでなく、学んだ知識を生かして
誰かの満足や向上に多少なりとも役立つ事をしているだろうか。


それを考えるとき、学歴なんてものは無価値だと思う。

だから社交辞令として時に言われる、
「○○大学ですか(○○課程ですか)、すごいですね」
みたいな言葉を聞くと自分はひいてしまう。
この人は<何を>すごいと言っているのだろう、と。
そして逆に皮肉に思う、その評価に耐えうるだけの行為を
自分はなしているのだろうか、と。

そしてこの世界には、僕の見る所では良くも悪くも
特殊な人間、変わってる人しか来ないのだ。


僕は何かに迷ったときにも、誰のおかげでここにいるのか、
誰によってこうすることができているのかを
見失わずにい続けたいと思う。

それが先生の言われる「大学が誰のためにあるのか」の
答えになると思うから。