La parole terrible  2007年04月

あなたは羊(財産)を何頭持っているかと聞かれれば、ただちに答えるだろう。ところが、友人を何人お持ちかと聞いてすぐ答えられる人はいない」
                               キケロ「友情論」

ひとびとは常に蔵の宝、つまり財産に関心があるが、心の宝、友についてはあまり関心が無いのではないか、ということを古代ローマの政治家、文筆家、哲学者であったキケロは述べている。

頂門の一針。

日本語では一般的に、友という言葉を広い意味で使う。
ともがら(輩)、供、伴、朋、といったように、クラスメート、仕事仲間、家来、道連れ、親類縁者まで、かなりの広い関係を「とも」と呼んでいる。
しかし、それらは友情とは違うはずだ。

「友」とは特別に精神的関わりの深いものである。友の原型は手が2つの手が組み合わさった象形文字からできているように、友とは、どんな辛いときでも、手を添える、他人の手に自分の手を添えていくものであるのかもしれない。

キケロは「友情論」の中で、そういう友が大事なのだと言っている。物質的・拝金的風潮の現代にあっても、本当に大事なものは2000年前と変わらないはず。服や、髪型や、化粧に気を配る何分の1かでいいから、それらと同じくらい真剣に友達のことを思ってみるのはいかがでしょう。
意外とねー、他人のことを考えるときって、自分の事のようには思えないのが人間のサガらしいですよ。


F
うん。自分のことのように考えるって、大変なことだよねえ。

大変でなかなかできないことであるっていうのを自覚していることがとっても大事なことだと思うなあ。

そうでないと、できなかったときに、自分の方向に攻撃性が向かって変になる・・・。

どうなんやろう。最近よく考えていること。

k
自分の方向に攻撃性が向かうかぁ。
それとは違うかもしれないけど、前の自分は全然攻撃性が足りなかったんだよねー。頭にくることってけっこう日常的にあるけど、いざこざを起こさないために一拍おいて、客観視して受け流す、みたいな。でも、頭で考えないと怒れないっておかしいぞ?とか思い始めてちょっと変えるようにしました。
「当に知るべし瞋恚は善悪に通ずる者なり」(p584)とあるけど、もっちなら前へ進むエネルギーとして生かしていけると思うよ。


W
自分の事のように考えるって
他人の価値観をそのまんま受け入れることとは
ちがうんじゃない!?
受け入れようとすると
自分が価値観を微調整しなきゃいけなくなって
しんどかったりとか。
自分に攻撃性が向くってことは
自分を適応させようとしてる、ってことだよね!?
そんな必要はないんじゃないかなぁ。

ね、Fさん☆


F
うん、そうだよね。

そういう人が、

なんだか 周りに増えてきたなあ、・・・て。