お金の価値は 2007年01月

お金ってすごい。
人間が生み出した、最高の発明品の一つだろう。

貨幣−−−大きく言えば資本と名付けられるそれは、
経済という仕組みの中で「価値」の仲介を果たす。

1個のリンゴを例に挙げよう。
自分で食べると、それはそれだけの「価値」しかない。
だが、これをリンゴが欲しい人に売るとどうなるか。
まず「食べるリンゴ」としての「価値」に加え、
相手が「欲しい」と思う分だけ「価値」が加わる。
さらにリンゴを作る量が100個、1000個、1tと
量が増えていくとどうなるだろうか。
まず、多くの人に買ってもらうために小売店が必要になり、
売店の建設と販売員の雇用という「価値」を生み出す。
規模の拡大に伴って市場が形成される。
市場の拡大は流通を必要とし、運搬業者という「価値」を生み出す。
ニーズが大きくなれば、リンゴの生産を効率化するために
土地、人、機械というニーズ(「価値」)を生み出す。
そしてこれが、ある適当なバランスまで続くことになる。

こういったことが社会のあらゆる分野で行われており、
必要とされるところに必要なモノ(人、物、サービス)を持って行くことで、
「価値」は連鎖的に増大する。
これが、発展し続けている現代経済のおおよその原理だ。

そう考えると、いろんなものが違った視点から見れて面白い。
「1万円」って、「1万円」じゃないんだ!?みたいな。

しかし、逆に言えば経済における「価値」=資本、とその尺度=お金は、人間の欲望を媒介として増えるだけに、それ自身が自己目的化し、絶えず自己増殖するよう宿命づけられている。
資本主義に生きる人間はこのような自己増殖運動に否応なく組み込まれている。

この「価値」、つまり金銭的価値は現代においてあらゆる社会的価値、生活的価値を従えて、傍若無人に振る舞っている。価値観の多様化が言われる中、実は金銭的価値への一元化が進んでいないだろうか。
拝金主義、マネーゲームの風潮は、根本的には人間の病理的な性癖の1つなのだろう。

構造の中に道徳的なものを組み込もうとする動きもあるが、それらは二次的なものでしかない。なぜなら資本主義それ自体には良心など存在せず、現実に、金融主導のグローバル資本主義の現状は「儲かるか、儲からないか」というニュートラルで無機質な対立軸を駆動力としている。

僕は、「お金が好きか、嫌いか」と聞かれたら、もちろん好きだし、
できるだけたくさんください、と言いたい。
それでも大事なものの順番から言えば、お金は一番じゃないよ。