Bullying 2006年11月13日

いじめによる自殺者の報道が続いている。
目を背けたくなるような現実だ。

頭をクールにして、数値から見てみよう。
平成16年度の年間の自殺者は32325人。
意外かもしれないが、年齢が上がるにつれ自殺者は増加し、
60歳以上が10994人、50歳代が7772人、40歳台が5102人、
計23868人で、全体の73.8%を占める。
それに対し19歳までの自殺者数は589人。
全体のわずか1.8%だ。
興味深いことには、10代を除くどの年齢層においても男女別では圧倒的に男性の方が自殺者が多い。
年齢が増えるにつれて自殺者も増加するのは、未来に対する希望が失われていくからなのだろうか。
もしそうなら、それだけに10代までの自殺はいっそう悲惨と見なければならないだろう。
それに、数値の上ではこんなに少ないとはいえ、僕が起きてから寝る時間をぼんやり過ごしてきた間に、毎日1人か2人の子供が自殺を行ってきたのだ。

「幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである」
トルストイアンナ・カレーニナより

なにより大事なことは、そのひとつひとつに他者の計り知れぬ本人の虚無と苦痛があったことだろう。

警察庁統計資料
http://www.npa.go.jp/toukei/chiiki5/jisatu.pdf
わかりやすい図表はこちら
http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm

いじめは、いじめを行なうものが必ず悪い。
なぜならそれは、相手に対するいわれなき軽蔑からおこるものだからだ。
僕のこころの中にも、他人を軽蔑し、人を見下そうとする心があるのを感じる。さもなければ自分とはまったく違うものとして、排斥しようとする心があるのを感じる。
さあ、悪いのは誰?このような心を引き起させる彼だろうか。それともこのような心を持つ自分だろうか。

差別と蔑視からほとんど隔離された環境にいる僕には(自分が比較的"豊かな"環境にいる自覚はある)恐らくこのようなことを論じる資格などないのだろうが、いじめの問題の本当の病根は「他者の痛み」を感じることができないことにあるのだろう。
苦しみを持つ人は他人に心開くことを恐れて苦しみを漏らさず、周囲の人は必ずあるSOSのシグナルを感じとることができない。また、感じても時間のせわしさのうちに心を"素通り"させてしまう。
この子たちに誰か1人でも、心を開いて本当の言葉を話せる人がいたならば、その子も僕もどんなに救われただろう。

自殺に限らず、社会の暗部はどれだけ深くおぞましいのだろう。それでもそれは人の、そして僕のこころの一実相の反映でしかない。例えば
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/bookreview/12/
ということもある。

美しく整った環境の中で、汚泥をしらず"清潔に"生きていくことの、その罪や如何。



M
勿論、すべての社会問題は人間の心の実相と深く根付いてるものだと思います。
他の先進国に類例を見ない日本の高い自殺率は、死を美徳とする生死観や恥の文化、ヒーローになるより長い物に巻かれてる方が平和だとする社会観など、文化的側面から語られる事もありますが、各論的に見れば救済措置の無い、もしくは知らない中高年の追い込まれ方は想像に絶する物があるんでしょうね。

日本社会の一つの問題点は、責任の所在をうやむやにするところにあると思います。誰も深く追及しない。その癖資本主義の競争原理ばかり普及している。

障害者の犯罪は、刑務所の収容力の問題で不起訴、病院送りとなったとしても、大抵2,3年くらいで治らないまま社会に出すそうです。社会復帰の目的もあるのでしょうが、心の治癒が時間を要するのに対し、経済の原理は待ってはくれないようです。

教育上、整った環境でエリートを養成する事はある程度許容されるでしょうが、上に立つ人間が清潔な環境しか知らないとすれば、社会の病巣の根は益々深くなる一方でしょうね。傍観者にならないようにしたいものです。

K
長文のコメントをありがとう。
こういう内容は重いので、なかなか読んでもらうのも恐縮な限りです。

自殺者の推移でひとつ気になるのは平成9年の24391人から平成10年には32863人と一気に跳ね上がることです。
これはちょうどうちらが中3から高1になる頃。
これはひとつには90年初頭のバブル崩壊から続く不景気に先行きを見出せなくなった頃ということと、2つ目にはリストラクチャリングによって失業率が同時期に大幅に増えたこと(自殺者の多くがいわゆる無職)、3つめにはパーソナルコンピュータ等の普及によって業務が著しくデジタル化し、流通する情報量は増大し、社会の変化が急激になったこと(これまで培ったスキルが通用しなくなる)といったことが挙げられそうです。
家族を抱えて体面も社会的地位も奪われる世の父親の気持ちはMの言うとおり想像に絶する物がきっとあるんだろうね。

この面からも希望というものの力がどれほど大きいか証明できそうな気がします。これまでも自殺のGDP損失は1兆円という試算があったり、主婦業の無償の労働GDP換算したり、今回のノーベル平和賞グラミン銀行貧困層に対するマイクロクレジット融資に対する受賞であったりと、愛や希望や励ましといったものは本来価格をつけられるものではないけれど、あえて価格をつけることで経済が世界原理となっている今日ではそこに人々の目を向ける有効な力になると思います。

経済の原理は経済の原理として、いかにして時代を先取りしたビジョンへと牽引していくかが(日本の将来を担う東大の)エリートの役割があるのかなと思います。

恵まれた環境でエリートを作る、それを突き詰めていくと何のためにエリートを作るのかという目的が見えてくる気がします。清潔な環境とは一面からは階級の壁とも見ることができますが、仮に「大学は大学へ行かなかった人のためにある」とすると、これは多くの人の血肉をもって購われた特別な育成環境だと考えることもできます。大学がもし、いわゆるノーブレス・オブリージュを教えなければ、まーらいおんの危惧するように、自分の足元にある基盤を忘れて他者を足蹴にするような非人間的な「エリート」が生まれるばかりなのだろうと思います。

B
>「他者の痛み」を感じることができないこと

同感.
ただねぇ,僕は他者の痛みを感じるにはいくら言葉で聞いてもだめで,身をもって体感しないといかんと思っていているんだよね.
まあ,これは話の本筋とは関係ありませんが.

K
>>B
いえいえ、めっちゃ関係ありますとも。
確かに言葉で聞くだけではだめだけど、ガン患者の苦しみに共感するのに別にガンになる必要はないと思います。
大事なのは分かろうとこちらから討って出る勇気と粘り強く続けていく忍耐力なのかな。苦労を味わって生まれる人間の幅こそが共感の深さを生むのだと、僕が常々尊敬する人を見て思うわけです。

B
>苦労を味わって生まれる人間の幅こそが共感の深さを生むのだと、僕が常々尊敬する人を見て思うわけです。

全く持って同感です.
逆を言うと,修羅場をくぐってきていない人にはあまり魅力を感じないですね.

K
>>B
だから苦労は買ってでもせよと(笑)
お互いに御苦労様なことです。