Sentimentalism 2006年11月11日

子供のころ、僕は心をからっぽにして、
そこをうつろいゆく想念を眺めているのが好きだった。
それはきっと僕が感傷的だったからなのだろう。

「感傷は主観主義である。
青年が感傷的であるのはこの時代が主観的な時期であるためである。
主観主義者は、どれほど概念的あるいは論理的に装うとも、
内実は感傷家でしかないことが多い。」
「感傷は趣味になることができ、またしばしばそうなっている。
感傷はそのように甘味なものであり、誘惑的である。
瞑想が趣味になるのは、それが感傷的になるためである。」

それでは、感傷とはどのようなものだろう。
僕は、過去から現在にわたる多くの精神の偉人たちが、
センチメンタリズムは無駄であると結論するのを読んだ。
僕は過去を振り返るとき、熱を失った強い感情を思い起こすとき、
ナルシシズムに落ち込むとき、感傷を覚える。

「すべて過ぎ去ったものは感傷的に美しい。
感傷的な人間は回顧することを好む。
ひとは未来について感傷することができぬ。」
「あらゆる情念のうち、喜びは感傷的になることが最も少ない情念である。
そこに喜びの持つ特殊な積極性がある。」

感傷は愛や憎しみや悲しみといった、
他から区別され1つとしてなりたつ情念ではない。
あらゆる感情はすべて感傷のかたちを取り得る。

「感傷はすべての情念のいわば表面にある。
ひとつの情念はその活動をやめるとき、
感傷としてあとを引き、感傷として終る。」
「特に感傷的といわれる人間は、あらゆる情念にその固有の活動を与えないで、
表面の入口で拡散させてしまう人間のことである。
だから感傷的な人間は決して深いとはいわれないが無害な人間である。」

感傷的なのは情動的に豊かなことではない。
さらに間違っているのはそれを芸術を創作する基礎にすえることだ。

「感傷であることが芸術であるかのように考えるのは、一つの感傷でしかない。」

「情念はその固有の力によって想像する、乃至は破壊する。
しかし感傷はそうではない。
情念はその固有の力によってイマジネーションを喚び起こす。
しかし感傷に伴うのはドリームでしかない。
イマジネーションは創造的であり得る。
しかしドリームはそうではない。
そこには動くものと動かぬものとの差異があるであろう。」

「感傷はたいていの場合マンネリズムに陥っている。」

行動的な人間は感傷的でない。
思索を行なうもの、自己のうちから何者かを創造しようとするものは、勤勉であれよ。
そは感傷の誘惑の多からんがため。