Are you happy? 2006年11月11日

さあ、引用ばかりで申し訳ないが、今夜も言葉を紡いでみよう。

あなたは最近幸福を感じただろうか。僕は自分の決めた信念にしたがって行動するとき、幸福を感じるように思う。

「今日の人間は幸福についてほとんど考えないようである。」
「幸福について考えないことは今日の人間の特徴である。」
「今日の人間もあらゆる場合にいわば本能的に幸福を求めているに相違ない。しかも今日の人間は自意識の過剰に苦しむともいわれている。その極めて自意識的な人間が幸福については殆ど考えないのである。」
三木 清、人生論ノート より。以下同。

では、もし幸福を求めないなら、僕たちは普段何を求めているのだろう?

「娯楽という観念は恐らく近代的な観念である。娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間がその代わりに考え出したものである。それは幸福に対する近代的な代用品である。幸福についてほんとに考えることを知らない近代人は娯楽について考える。」

娯楽とは簡単に言えば、別の仕方における生活のことだ。
現代においては働く時間に対する遊んでいる時間、真面目な活動に対する享楽的な活動と考えられている。
つまり楽しみは「生活」そのもののうちになく、生活とは他のもの、すなわち娯楽にあると考えられているのだ。

「1つの生活の仕方にほかならぬ娯楽が生活と対立させられる。娯楽を求める現代人は多かれ少なかれ二重生活者としてそれを求めている。近代生活はそのように非人間的となった。」

現代に生きる人間は、幸福になることを求めずに享楽的にいきることを望む。生活を苦痛としてのみ感じる人間は生活のほかのものとして娯楽を求めるが、そのような娯楽は同じように非人間的であるほか無い。そしてそのような非人間的な所に幸福はないだろう。
では幸福はどこにあるのか。

「幸福は肉体的快楽にあるか精神的快楽にあるか、活動にあるか存在にあるかというが如き問いは、我々をただ紛糾に引き入れるだけである。
かような問いに対しては、そのいずれでもあると答えるほかないのであろう。」
「人格は地の子らの最高の幸福であるというゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるということは人格になるということである。」
「なぜなら、人格は肉体であると共に精神であり、活動であると共に存在であるから。そしてかかることは人格というものが形成されるものであることを意味している。」

幸福とはどのようなものか、僕にも具体的に言うことはできない。彼の場合と僕の場合では、求めるものも環境もちがうからだ。
ただ取り組み方が同じであり、それは全人格的なものだということになるのだろう。つまり、自分の全存在をかけて求め、受け取り、感じるものだということだ。

だから、心の中のみの幸福というものはあり得ない。

「歌わぬ詩人というものは真の詩人でないが如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。」

幸福は心の問題だけであったりすることはできない。それは全人格をかけて表現されるものであり、必ず精神を表すものであると共に能動的な活動そのものでなければならないからだ。
もし外で起こることを無視し心の中のみの幸福を感じているのならば、それは受動的であるがゆえに、単なる感傷でしかない。