地図の見方 (2006.10)

いまいる場所から目的地まで。
その行き方をあなたはどのようにイメージしますか?

先日、疲れてぼーっとしながら帰路に着いていた意識の中、
ふと2つのイメージが交錯しました。
1つは学校から**、そして家までの平面的フィールド。
もう1つは***通りの町並みの、そのマッシブさと色彩。

前半は学校と新宿を含んだ平面上に、道や建物が配置されているイメージ。そのイメージの中ではどこにいても、自分の決めた定点(ここでは学校、新宿、家)といった場所が、全ての建物を透過してどちらにあるのかが直感的に分かる。つまり自分を含む世界の客観視。

後半のイメージでは、目の前にある建物の質量感、色彩の加減、光の強弱などが、圧倒されそうなリアルさで僕に迫ってきた。ネオンはきらきらと、果物や花は美しくおいしそうに、町並みの汚れや、ガラスのうつりこみまでが印象として強く意識に食い込んでくる。
こちらは自分を中心軸に据えた世界の主観視。

この2つの視点は、いわゆる男性的なものの見方と女性的なものの見方の違いではないかと思う。
女性は地図が苦手で、男性は得意だと一般的にいわれているが、僕なんかも地図とあって方位さえ分かれば、知らない土地だろうと大して迷わない。

なぜなら現在地から目的地までの相対的な距離と方角が分かれば、自分がどっちを向いて進んでいようとも目的地はイメージの中で分かっているからだ。

逆に、地図が苦手もしくは分からないという人はおそらく逐次的な情報をもとに進むのだろう。例えば、
「この道を進んだ3番目の角で曲がって、次の信号を左・・・」
というヤツだ。こういった進み方は1つ間違えると修正がきかない。目印を決めたとしても、意外と見逃してしまったり別のものと勘違いすることは多い。

要はどっちの考え方に重点を置いているかという話で、男だからこう、女だからこうと決め付けているわけではなくて、誰しもどちらの視点も備えていてどちらも重要ということ。

ただ、今回の場合疲れていて頭が普段とは違う働き方をしたのか、
意識せずに現実があれほどリアルに見えたのが驚きだった。


話は大きく飛ぶが、思うに兵士や戦士として優秀であるためには前半の能力が大きくなければならないだろう。作戦遂行において、死の恐怖が迫っている中でも冷静であるためには自分の命さえも等閑視する必要があるからだ。
逆に、恐怖でパニックに陥るようなことがあれば往々にして自分を危うくしてしまう。

また、自分自身の客観化は痛み、苦しみ、悲しみなどの負の感情も無効化することができる。痛いと感じる自分を冷静に観察するから、反応が鈍ったり、不快が募ったりするといったデメリットを見つけはしても、痛みによって弱気になったり嘆き悲しんだりはしないからだ。
後半の能力が抑えられない人間では、ちょっと怪我をしただけで泣き叫び、嫌になってしまうだろう。

しかし、負の感情の無効化は反面、正の感情を封印してしまう。
長く戦場にいつづけた人間が社会に復帰できなくなるのは、そうした非人間的な環境が「感じる」という感覚を歪ませてしまうからなのだろう。
そしてそれは戦場に限らず、非人間的であれば種々の過酷な労働においても発生してしまう。


まぁものすごく短絡的にまとめてみると
男・・・客観的、未来志向
女・・・主観的、現実志向
といった感じで女性は地に足がついている(=現実を強く認識している)と言われますが、細かいところに気付いたり、綺麗好きだったり、ちょっとした感情の変化にも敏感なのは自分も見習っていきたいところなのです。