Les Essais (2006.09)

なかなか進まないんだけど、最近はずっとモンテーニュのエセーを読んでいます。なぜこれを読み始めたかというと、今年の提言の中で、論旨の肉付けのための「ケーススタディ」としてこの本が取り上げられていたから。

すぐに読みたかったのですが、探してみても見つからない。
岩波文庫ならあるかと思いきや何十年も前に絶版になっていて(こんな有名な本なのに!)、しばらく諦めかけていたのだが、7月になってワイド版岩波文庫というので出ていることが発覚。注文して購入しました。けど、なぜか普通の文庫本の倍くらいの値段するんだよねぇ。1冊1400円で6巻セットは高いです。

さてessayの語源ともなったこの本、どのような時代にどのような人によって書かれたかということから始めてみる。
時は16世紀、宗教改革によって引き起こされた宗教戦争の時代にこの本は書かれ、著者はフランスのモラリスト(人間性の探求者)、懐疑論者、人文主義者であるミシェル・ド・モンテーニュ

彼は高等法院の法官、国王の側近、ボルドー市長などを歴任する貴族でありながらも一般庶民と交わることを厭わず、エセー内でも
「百姓と王様、貴族と賤民、役人と平民、金持と貧乏人、を比べてみると、たちまち、非常な差が現れて来る。だが、実際には、言ってみれば、彼らのズボンが違うだけである」
「私も当節、大学の学長などよりも賢く仕合せな多くの職人や百姓たちに会ったが、どちらかというと、こういう人たちにあやかりたいと思う」
といったように、当時の封建社会では絶対的であったはずの身分制度などにはとらわれない、人間主義的でリベラルな精神の持ち主だった。

また、「信仰の自由」という概念や言葉がなく、カトリックプロテスタントとの対立が原因となって凄惨な戦争が行われ時代(自由や人権を標榜した「人権宣言」が行われたのは200年後の18世紀)にあってエセー内に「信仰の自由について」の章をもうけるほど勇敢で普遍的視座を持っていた。

そのようにこの本は現代でも通用するほどの高度なリベラルさを持つため、後世の哲学者に多大な影響を与え、後に禁書となった様。とはいっても内容的には敬虔なカトリックの見地から書かれているんだけど、宗教の名の下に人間を差別するような輩に対して容赦なく批判を行っているからなんだろう。

しかしそんなキリスト教ちっくな話題ばかりでなく、「友情について」「人間の知識の虚しさについて」「嘘つきについて」といったものから「親指について」「酩酊について」「着物を着る習慣について」などなど、身近な話題からどーでもいいような話題まで多岐にわたって語っている。

最初の話に戻ると、主題では頻発する自然災害、テロ、移民問題などをどのように解決していくかを問題としていて、急進的な方法ではなく漸進的なアプローチをとるべきだとしている。

なぜなら人間や社会というものは「政治形態」にあわせて壊したり作ったりできるものではなく、一気に変革を加えることは「個々の欠点を直そうとして全体の混乱を引き起こし、病気を治そうとして病人を殺してしまう」ことになるからだ。

提言内では急激な改革に対して少なくともこれだけのことは言えるとして、急進的な近代革命の推進者たちは、人間や社会の“可塑性”ということにあまりにも楽観的でありすぎ、その思い上がりが急進的に事を急ぐあまり、テロや拷問、殺戮などの暴力を正当化し、鮮血淋漓たる傷跡を残してしまった、と述べている。それであるならば、「人権宣言」の理念を先取りしていながらも宗教改革をめぐる抗争の地獄絵図を通じて現実の改革に対しては懐疑的であったモンテーニュの洞察の方がよほど正しかったのではないか。

また、公務に携わった経験からモンテーニュはエセー内で「政治に関する徳」についてこう述べている。
「政治とはいろんな襞と屈折のある、混ざりものの、技巧を凝らした徳であって、まっすぐな、純粋な、普遍な、清浄潔白な徳ではない」
「群集の中を行く者は、脇に寄ったり、肘をせばめたり、退いたり、進んだりしなければならない。いや、出会うものによっては本道からもそれなければならない。自分に従うよりはむしろ他人に従って生きなければならない。自分の考えよりも他人の考えに従って、時機に従って、人々に従って、事柄に従って、生きなければならない」

本来、政治は他の職業と同じく技術である。押したり、引いたり、利害を調整し、異見の折り合いをつけ妥協や折衷を日常のこととするもので、高望みしてはならない――。「正当な歩み方というものは冷静で、重厚で、抑制された歩み方であって、放恣で無軌道な歩み方ではない」と述べるモンテーニュの言葉は、現代の政治をあてはめてもまったく遜色なく思われる。

なかなか先へ読む時間がないけど、早く読み進めたいなぁ。