アラビアン・ナイト その1

美しき博学のタワッドド(愛、共感の意)に対する
各分野の碩学たちの試験。

学識ある聖典の注釈者は尋ねました、
「洗浄(みそぎ)ということばは、いかなる意味か?」
タワッドドは答えました、
「洗うことによって、内部または外部に存在する一切の不浄を取り払うこと。」

彼は尋ねました。「断食するという言葉はいかなる意味か?」
彼女は答えました。「慎むこと。」

彼は尋ねました。「与えるという言葉はいかなる意味か?」
彼女は答えました。「おのれを富ますこと。」

彼は尋ねました。「巡礼に行くとは?」
彼女は答えました。「目的を達すること。」

彼は尋ねました。「して、戦いを行うとは?」
彼女は答えました。「おのれを護ること。」

彼は尋ねました。「ジハードとは?」
彼女は答えました。
「ジハードとはイスラームが危機に瀕したときに
不信者(非回教徒)どもに対して行う戦争なのでございます。
人は自己防衛をするためのほか、
戦争をなすべきではございませんし、決して攻勢を取ってはなりません。
信徒は、いざ武装したならば、
ただちに不信者に向かって打ち進み、断じて踵をかえしてはなりません!」


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僕自身も、自分と友を護るためだけの力を持つようになれたと思う。
そのための僕の体と、頭と、心なのだから。
だが、その力を揮うべきときはいつなのか、わからない。
自分に牙をむける者、
それを打ち破ることは、比較的たやすい。
しかし、悪意を秘める者、悪をなす者を倒すのはむずかしい。
なぜなら、自分が悪意を持たず、悪をなしつつあるとはどうして断言できよう!
その因果応報を恐れ、汝のこぶしと剣よりも鋭きその舌鋒は、
さびつくままに打ち捨てられるか?
正義を思い悪をなすことと、正義か悪かわからぬまま、傍観することは、
果たしてどちらが罪が重いのだろう。


(2006.02)