物語の力

ある友達は僕に語り、そして言う。
「僕は弱い人間なんだ」と。
そのとき僕は自分に問いかけてみる、
「僕は彼と同じく弱い人間なんだろうか」
そして答える、「然り、僕は弱い人間だ」
「彼と同じように、弱い人間だ」と。
しかし答える、「彼のような弱い人間ではない」と。

それでは何が彼と僕に差を与えたのか。
彼は悩む時に、どうしてよいのか途方にくれる。
逆に僕が悩みに直面したときに、
僕がおもい浮かべるのは何者なのか。
それは、僕がこれまでに読んだ物語の、
登場人物の行動と思いとその結果たちだ。

本の中のストーリーや人々がすべてだとは思わない。
自分が実際に経験する事実が、どれほど大きいものか
僕は知っているつもりだ。
しかしそれでも、僕は物語から受ける"経験”も
それに匹敵するくらい大事だと思わずにいられない。
なぜならば、人を大きくするものは、
人の思いを知り、その思いの行動を見、その結果と
その人がそこから受ける満足を知ることだと思うからだ。
自分に照らして考えて見てほしい、自分を豊かにしたものは何か。
それは何かこうしたいと思うものがあって、
それに対し何かを行い、それに対して何らかの進展や結果が
出たときではないだろうか。
たとえば勇気を出して人に親切にし、ありがとうを言われたとき。
たとえば一生懸命な練習の結果、できないはずのものができたとき。
たとえば自分勝手な行動をし、周りの人に迷惑をかけたのを知ったとき。
たとえば自分の選んだ選択が、人を悲しませてしまっていたとき。
たとえば苦しみも喜びも受けとめて相手を愛するとき。

振り替えって現実の中で人が何を考え、何を目指して知るのかを
知ることがどれだけあるだろうか。
残念ながらそんな思いを語り合う機会は少ないし、
不幸なことに大概はその結果しか見ることができない。
それを見て、僕たちは羨み、妬み、あるいは虐げ、貶める。
恋愛や友情のみが、わずかに自分以外の思いに
触れる経験になり得るのだろう。
しかしその場合にも、お互いに何かをはぐくむのでなければ、
得られるものは乏しいものしかないだろう。
これは僕の意見なのだが、ただ一緒にいたい、触れ合いたいと
思うだけならばただの本能と、どこに違いがあるのか
わからないじゃないかと思う。
しかしそれが原動力であることは否定しない。それがなければ、
何の友情や恋愛だろう!

現実ではかかわれる人間が千人を超えることは多くないだろうし、
思いをかわせる程の人間は数十人がせいぜいではないか。
それに対し物語は、文字通りあらゆる人間とその思いを共有できる。
ただし、もしその本がくだらない本ならば、
あらゆる意味で読む人を毒すことになるだろうが。
一流の本を読め、というのは古今の偉人の語るところだが、
作者の自己の命を削るような思いを持たない、
ただ内容が過激なだけの下世話なものは読む人の目を濁らせ、
その人を本の内容と同じレベルに下げることだろう。
もちろんいいものはメディアは問わず、本であれ漫画であれ、
TV,、ラジオ、その他いいものはよい。
また、まじめくさったものがいいという訳ではなく、
その分野で一流であること、真剣であることが大事だと思う。

これまでも、そしてこれからも、
本は僕を支え、僕を動かす力となり、僕を導いてくれるだろう。
そこの中で今も息づく人々は、あるときは
僕自身でありながら、僕の友人でもあり、
僕の先生ともなり、反面教師ともなる。
それでもなおかつ、僕を成長させるものは僕の経験のみで、
本は僕の経験をあらゆる角度から見ることを可能にし、
1つの経験をほかの人の何倍にも、何十倍にもしてくれるのだろう。

年を経るにつれ、現実的なものに力を注がねばならず、
本を読む時間が少なくなっているのは残念なこと。

(2006.07)