なぜ人を殺してはいけないか

「どうして人を殺してはいけないの?」

こう質問されて、どう答えるだろうか。
ふつうの倫理観から考えると、殺人が悪であるのが常識だが、
その根拠はと言われると、多くの人が言葉につまるのではないか。

私は高校生くらいの時から真剣にこのことについて考えるようになって、
いろんな本を読んだり、周りの友達に質問したりしたけど、
納得のいく答えは得られなかった。

その時に得られた答えとしては、
悪い側では「そんなこと考えるなんておかしいんじゃないの?」
という意見を言う人もいれば、良い側でも、
「いけないからいけないに決まってるじゃん」というものだった。
これらは極めて正常な反応だし、これらを答えてくれた友達は
バランスの良い常識を備えていたと思う。
ただ、どちらの幅にせよ、これらの回答がタブーに関わる、
という「思考停止」に終わっているということには気付くだろう。

だがこれは、その本人にとっては人生を生きるバランスを保つのに必要な、
良い無関心だ。
万が一に殺人に関わる事態に巻き込まれない限り考える必要のないことである。
ただし、それは自分の中でのみ成り立つもので、
上記のような疑問を持った他人を説得できる類のものではない。

本から得られた意見の中には、大きく分けて、
宗教的なものと利益的な面(社会的な面)から論じているものだった。

宗教的なものでは、大抵は同じ方向性からの意見となっていて、
人の命というものの大切さや掛け替えのなさを説き、
それを破壊することの悪を断じる、というもので共通していただろうか。

利益や社会的な面から論じているものであれば、
遺伝子の存続の確率を最大にすることであったり、
自分が殺されないために、互いに安全保障をするために
ルール化したのだということであったり、
社会の繁栄や安定のためには勝手に人員を減少するのは不利益だ、
といった意見が得られたように記憶している。

だが、どの意見も、人を殺してはいけない理由になっていない。
それぞれの意見に対してはどれも否定的な反論を与える事ができる。
人の命の尊厳を否定すれば殺人は肯定されるし、
そもそも人とそれ以外の動植物で、命の価値に差があるのはどうなのだろう。
また、自分が殺されてもいい人や、社会などどうなってもいい、
という人にとってなら、殺人は許されるのだろうか。

結局、私が自分で出した結論はこういうことになった。
まず、「人を殺してもいいかどうか」という問自体が間違えていたのだ、と。

「人」とは何か。。。と考えると、明らかに抽象的すぎることが分かる。
だから、こう問うべきなのだ。
「私はあなたを殺してもいいかどうか」と。
誰かは「そんなこと考えたくもないよ!」という優しい心を持ってくれると思うし、
他の誰かは「こういう時には殺したいと思うときがある」という人もいるだろう。

普通の想像力を持っている人ならば、
誰かを殺した後味というものを想像することができるだろう。
私の答えは、それを味わわざるを得ない覚悟を持った上で、
「その結果を全て受け入れることが出来るならば、
その個人の責任において殺人が否定されはしない」ということになる。
私個人を言えば、人を殺すという重みを受け止めて生きる自信はないが。

そして、そういう根源的な感覚、または消極的な忌避感…が、
世界の安定を形成する一つの要素となっている。
ときに、人と人との摩擦により、この防波堤はオーバーフローするし、
(毎日のようにニュースで見たり聞いたりする)
集団でこれが起きれば戦争や紛争やテロという形を取る。
国家などの集団で起きれば死刑という刑罰になるし、
小さいグループでは村八分やリンチなどの形を取るかもしれない。

現実的に必要であると信じられているから戦争や死刑はなくならないが、
現代でそこに行き着くまでには多くのプロセスを得る必要があるのは、
それが必要であるという「大義(理念)」に加えて、
殺人という重みを社会全体に分散させて軽くするだめなのだろう。

だから、死刑が執行されるその毎に、私にもその責任の一分があるし、
もし日本が戦争するときには、反対しなければ、
その死ひとつひとつが自分の望みだったということと同義だ。