本質はコンテンツ 2008年04月17日

CDにしろ、DVDにしろ、本にしろ、
僕らはプラスチックのディスクや紙を買っているわけではありません。
音楽だったり、映画だったり、物語だったり…
基本的にはそれらを楽しむために買っているのだと思います。

ケースや付属品、おまけ等が魅力的だったいうことも時にはあるけれど、
そういうのはきっと1次コンテンツの魅力があってこそだと思う。


それでは、人間はどうなのだろう。
慎重に考えると、人間の評価というのは出来事に対する反応で
決められているような気がする。
もちろんこんなことは当たり前だと言われるかもしれないけど、
もし僕の姿形、リアクション、微妙な表情の変化、独自の話し方を、
表面だけそっくり真似できる機械がいたら、
誰も僕ではないと見分けることはできないだろう。

とすると、僕のコンテンツというのは僕の内部にあるのではなく、
他人にとっては表面に表れる全てを総括して、僕であると言える。

内部にあると言われる精神や思想は、人間に存在できるのか。
はたまた単なる幻想の概念なのか。

一方で、僕の意識にとっては僕の感情と思考こそがコンテンツ。
世界を目で見ているようで、実際には自分しか味わっていない。

行為を通じてその思想を理解する、というのは本道であるが、
その行為は自分の内部状態のフィルターを通じて解釈される。

人間の行動が、内部の状態を反映していると仮定できるならば、
正見の人には行為から内部の状態を、本人が見ているように推察できるだろう。
邪見の人には、あらゆる行為が自分流に歪められ、立派な意図は地に落ち、
邪悪な行為は快楽と軽侮を覚えているようだ。

僕の思想も、外面も、僕が望むがままに変えることができる。
そしてある意味で、何も変えることはできないのだ。
思うときに、思うまま、お望みの自分をお取りください。