本当に欲しいものは、他の何を犠牲にしても

愛があれば幸せになれる者、大いに愛を与い、そして受けよ!
金があれば幸せになれる者、大いに金を稼ぐがよい!
名声あれば幸せになれる者、大いに名声を得よ!
権力あれば幸せになれる者、大いに権力をその手に集めよ!
全身全霊を使って、あらん限りの智慧と行動を持って、
愛に、金に、名声に、権力に、突き進めよ!
口にその言葉を靡かせながら、現状に甘んじている者は、
ただの安逸しか求めていないことを知れ。


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欲しい物が欲しい分だけ、
何の代償も必要とせず与えられたとき、
それでもあなたは満足だろうか?
はたまた欲しい物が何もないとき、
それでもあなたは満足していられるだろうか?
もしそうでないのなら、そのために
働くことや、人と交渉することや、手に入らないもどかしさといった
そのプロセスの中にも、あなたの満足の要素が、
ほとんど半ばと言ってよいほど
豊富に含まれているのではないだろうか?
偶然や見知らぬ他人から与えられた物など、
投げ捨ててしまったとて、その程度にしか心に残らぬだろう。



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半年ほど前からある観念に襲われていた。
それはいわゆる「運命論」というやつだ。
なにをしても結果は変わらず、前もって決められている
というアレのことだ。
ちょっと違うのは、生じる結果が同じなのではなく、
その結果に対する自分の感じ方が同じということだ。

思い始めたのはふとしたきっかけ、
つらい思いをして堪え忍んでも、それが酬われないのでは
と思ってからだ。
そのときの僕は落ち込んでいたのだろう。
この苦しい時間、いそがしい時間を、もっと楽な選択を
したとしても、感じる気持ちは同じではないのかと。
たとえば、苦しい義務を果たしても、
こんな嫌な思いをするくらいならやらない方がよかった、
と思ったり、逆にやらないで他のことをしていても、
僕の力をこんなに無駄にしていてよいのか、
と自分をさいなんでしまう。
(もちろんこれは学校や研究のことではない)
自分で積極的になさないから悪いのだろうか、
よいことだとしても、いやいやながらやるから
得られるものがないのだろうか、いぶかったものだ。

ぼくのような人間は常に虚無感が頭から離れない。
それとは違う考え方、感じ方をする人もいて、
それが分かったときにはずいぶん驚いたものだ。
だからあらゆる異質な物、自分を圧倒するものを、
僕は常に恐怖する。

けれども未来が決まっていようが決まっていなかろうが、
そんなことは人間にはあずかり知らぬことで、
仮に神や絶対者にようなものがいるとするならば、
そのような者だけが知っていればいい。
人間の本当に知らなくてはいけないことはただ一つ、
『どのようにすれば幸福に生きれるのか』、
その一点しか知るべきことはなく、実行することもない。




(2005.11)