TVピープル  (2006.10)

苦しいときに苦しいと言ってみたところで、何の解決にもならないものだ。
そんな時僕は、ちょっとおどけてみせるのかもしれない。
だいたい、こんな程度のものがつらいというには当たらないことを、古今東西の人間が身をもって証明している。12日の道程を11日まで進んでやめてしまったのでは、どうして美しい月を眺めることができるだろう。何事も、最後が一番大変なものだ。自分らしくやるだけ。


ふと、村上春樹の短編集を思い出した。「TVピープル」だ。
表題作は0.7倍サイズの不可思議な存在、TVピープルが、勝手に部屋にやってきて雑誌を掻き回したり、TVを運び込んでは映像を受信したり調整したりする話だ。

何かのメタファなのだろう。きっとメディア社会の汚染を、作られた社会にそって生きなければならない様を描いているのだと思う。

その中では自分の思考は失われていく。
TVピープルは飛行機を作る。しかし、それはまったく飛行機には見えない代物なのだ。しかし、最後には主人公もこれは飛行機ではないか、と思い始める。自分も0.7倍になり始めている。もはや、実像と虚像の区別がつかなくなってしまっているのだ。そして言葉は失われる。


さて、本題。
その短編の中には、加納クレタという話も出てくる。
この人物は「ねじまき鳥クロニクル」にも出てくる人物だ。
彼女はねじまき鳥の中で、痛みを語る。
「私は他人より遥かに頻繁に、そしてずっと強くそのような痛みを体験しつづけて参りました。」「世の中の大多数の人々は、日常的に痛みなんてほとんど感じることなく生きていけるのです。そのことを知って、私は涙がでるほど悲しくなりました。」「しかし8年間、私はそれに耐えました。そのあいだ、私は人生の良い面だけを見ようと心がけて生活をいたしました。私はもう誰に対しても愚痴をこぼしませんでした。どんな苦しい時でも、いつもにこにことしているように努めました。そのような努力のおかげで、私は多くの人に好かれるようになりました。」

しかし、その後恋人に言われる。
「君にやれないわけがないだろう。君には努力が足りないんだよ。結局自分に甘えているのさ。君はいろんな問題を全部痛みに押しつけているんだ。愚痴ばかり言っていても仕方ないだろう」

それを聞いてこれまで我慢していたものが、私の中で文字通り爆発してしまいました。「冗談じゃないわ」と私は言いました。
「あなたに苦痛の何がわかるっていうのよ。私の感じている痛みは普通の痛みなんかじゃないのよ。痛みのことなら、私はもうありとあらゆる種類の痛みについて知っているのよ。私が痛いというときは本当に痛いのよ」、私はそう言いました。そしてこれまで経験してきた痛みという痛みをあらいざらい並べあげて説明しました。

でも彼はほとんど何も理解できませんでした。本当の痛みというものは、それを経験したことのない人には絶対に理解できないのです。


僕も決して痛みに敏感な人間ではないが、人が笑う場合にも自分には背筋が冷たくなる思いしか感じないような出来事も多い。
「痛みを経験したことのない人には、絶対に理解できない。」
それはわかって欲しいことが通じないことだ。他人の出すSOSのシグナルを感じられないことだ。少なくとも、こんな人間とは友達でいたくない。

「私が痛いというときは本当に痛いのよ」
忍耐とは我慢できないことを我慢することだと言うけれど、
そろそろそんなことはやめにしよう。